人生は謎だらけ

人生で出会ってきた謎との邂逅

何事も練習あればこそ

今日、久しぶりにピアノを弾いたら、全く弾けなくて愕然としましたmesameです。

 


なぜピアノが弾ける人は、ピアノが弾けるのでしょうか?

 

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弾けるように練習していたり、その素養があったりするから初見でもじゃんじゃか弾いてしまいます。

 


羨ましい。

 


と、弾けない私は思うのですが、弾けるまで練習すればいいですよね、早い話。プロ級には程遠くても、アマチュアでバリバリ弾いてる人がいますよね。そうなるべく練習をすれば良い話。

 


でも、ピアノが上達するには、私のようなのは一定程度時間がかかります。それゆえに、途中で挫折、となる恐れがあります。

 


弾ける曲から次第次第に望みの曲へ、だんだんと上達でき、その過程で飽きることなく、倦むことなく練習に励まれるのなら、誰もがピアノ上級者になれそうですが、世の中そうでない。

 


なぜでしょうか?

 


上達が当初の期待と違って遅かったり、練習のための練習をしているとイヤになってしまうのです。

 


そこへ、先生なる人が指導していたりすると、ここはもう少しクレッシェンドで、ここは伸び伸びと、ここは静かに、とか曲に表情をつける、という指示が出てきていつまで経っても先へ進めなくなってしまい、もーやめた、となってしまいます。

 


ところが、独学ですと今度はちょっと弾けなくなった時点で直ぐに諦めてしまうか、上達のヒントがもらえないが為に一向に上達につながらない訳です。

 


八方塞がりです。

 


そこで、ピアノが弾ける人は偉人になります。

 


さっきも言いましたが、羨ましいですね。はっきり言うと。

 


それはどうしてかと言えば、天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。で始まっているにも拘らず、学問をしたかどうかでその後は違ってくるのだよ、とかの大先生がおっしゃっている通り、なんかこう、巧妙に騙されている感じが拭えないのが反映されているのですね。

 


挑戦することに意義があるとするならば、かの大先生が英語を一生懸命勉強というか研究し遂にそれまでの日本語まで変わってしまったぐらいに影響を及ぼす程、心底学問に熱中するくらいピアノに熱中すれば良く、ベートーヴェンも「熱情」と銘打った作品を書いたぐらいですから、何事も熱中、熱情あればこそ、なのです。

 


ピアノが弾ける人を羨望の眼差しで遠くから仰ぎ見ていてはいけないのであって、熱情を身体中にみなぎらせて、弾が飛んで来ようが火事になろうがピアノ、ピアノ、ピアノ、と念じていれば、いつかはピアノが弾ける人になれるはずで、もうピアノが弾けません、という人はいなくなるぐらいその上達方法に習熟して公にしたならば、ピアノが弾けることは全然普通で、空気を吸うようなぐらいなことになり、私がピアノを弾いても、私がピアノが弾けることに意義を見出せなくなりますので、ここは大先生のように、練習に励めばよろしいとしか言わないことにしましょうか。

 

mesameでした!ではでは!