私たちはただ一通りの存在なのか?
さつま芋を食べながら考えましたmesameです。
私たちはただ一通りに存在しているのでしょうか?
それとも、本当はもっとたくさんの存在の仕方があったりするのでしょうか?
さつま芋を食べている私は、私の判断では、さつま芋を食べています。
では、さつま芋を食べていない私は、そのとき存在しないのでしょうか?
普通に考えると、さつま芋を食べているなら、さつま芋を食べていない、とは言わないでしょう。
なぜこんな事を言うかと言えば、ほんの数秒前までさつま芋を前にしながらも、そのさつま芋を食べていない私がいました。
なぜか知らない力が働いて、私はそのさつま芋を食べるようになったのです。
知らない力とは食欲なのかもしれませんが、もしそれが働かなかったら、さつま芋を食べていない私がそのとき存在しているはずでした。
しかし、さつま芋を食べている私が存在していることを認め、同時にさつま芋を食べていない私が存在していないことを認めると、食欲が働かなかったなんて事はあり得なくなります。
その前に、さつま芋を目の前に置いておく事も必然の事になってしまうのです。
なぜかと言えば、そのときさつま芋を食べていない私は存在しないのですから、さつま芋が目の前になければなりません。
つまりは、いまの存在のあり方をただ一つに限って認めると、全てが、世の中の全てが、いまこうなっている為に必然でなければならない訳です。
この事情については、二通りの見方ができます。
一つ目は、全てが必然である、という見方。
二つ目は、存在しているのは一つに限られない、という見方。
どちらも奇妙な見方ですが、話の流れからするとこうなってしまいます。
もしかしたら、論法に誤りがあるのかもしれません。
私の力不足で、いまのところこれ以上踏み込めないのが残念です。すみません。
さつま芋も食べ終わってしまいました。
実を言うと、今回は、この世の中の存在は全て「真」である、と書こうと思い立って書き始めたのですが、筆の力はすごいですね、「真」かどうかは分からない状態になってしまいました。
世に言う、ゲーデルの定理のようなものでもあり、量子論の話のようでもあります。
ザクッと言うと、ゲーデルの定理によれば、「この命題は証明できない」という命題は証明も反証もできない、とのこと。
今回の話は、どう扱っていけば良いのでしょうか。
一つのよすがとして量子論がありますね。量子論では「重ね合わせの原理」が基本とされています。つまり、「状態」とは可能なあらゆる状態が重ね合わされていて、観測されたときに状態が確定する、という話。
存在とは一通りではなく、様々な重ね合わせだろう、と言うのが真相に近いのか、それとも量子論の採用している原理が超克されるときが来るのか、私にはいまのところ分かりません。
とうとう灯油もなくなったので今回はこれで。
mesameでした!ではでは!