それでも階段を登り続ける。私だけの人生だから。
間があきました。mesameです。今回は短くまとめたものをお送りします。
『かいだん』
階段を登っている。
下を見るとずーっと下まで階段が続いている。
上を見てもずーっと上まで階段だ。
すると、ここはどこだ?
いまはいつだ?
とんと見当がつかぬ。
それでも階段を登らなければならない。
宿命のように。
いつまでも、いつまでも。
絶えることなく。
そんな人生に悔いはない。
なぜなら、私だけの人生だから。
私にしか歩めない人生だから。
これまでも、これからも。
大切にしよう。人生のひとときを。
(おわり)
どうもなんかパロディになってますね、ところどころ……。私の頭の中のフレーズが出てしまいました、ということで、mesameでした!ではでは!
気がかりを解消すると人生は面白くなる
今日は気分良く、どんどん家の片付けが進んで自分でもびっくりのmesameです。
そんな自分を振り返ってみると、ストレス解消ならぬ「気がかりの解消」という発見?でした。
家の片付け問題、みなさまはいかがされてますか?
私は毎日気にかかってはいたものの、なかなか身体が動いてくれず。
さすがにこれ以上はヤバイ、と思っても学生の頃の試験勉強みたく手につかない状態が続いてました。
そこで今夜フッと脳裏をよぎったのが、バーに行ってちょっとウイスキーひっかけてこよう!とお昼頃から思っていたことでした。
バーが8時からなので、それまでにやれるだけやって、行くのだ!と自分に言い聞かせて、更に音楽をかけ、腰を上げて片付けをやり出したらもうすっかりきれいに!
ブログを書く時間までできました。
自分にセーブをかける事は時に大事です。
が、もっと大事なのは自分の気にかかることをそのままにしないで、実際にやることですよね!
自分にウソをつかず、自分にやらない言い訳を考えたりせず。
私もまだまだ未熟なのですが!
でも、気にかかることは、何かのサインなのだと思います。
不思議なことに、そういうサインを見逃さないでいると面白いです。
例えば、コンビニに入って、お弁当の棚をぐるっと見て決まらなくなりそうだったのが、結局最初に目に止まったお弁当を買ったりしませんか?
そんな感じの事は数え切れないほどありますよね?
前の記事も、そんな自分の気がかり、引っかかりがキッカケで書いたのですが、コメントも頂けてとっても嬉しかったです。実はこれも今日のいい気分の理由です。
気がかりなことに向かうのは最初は腰が重いものです。
それをちょっとだけ我慢してやってみる。
すると人生は自然と面白い方へ行くのではないでしょうか?
自分の隠れた気がかりを発見するのは、自分によく耳を澄ませることですよね?
感覚を研ぎ澄ましていく。
すると、見えなかったものが見えてくる!
これは面白いですね!!
mesameでした!ではでは!
伝わるようにシンプルに書くことに挑戦
なかなか伝わるようにシンプルに書くことができないmesameです。
私が敬愛している方のブログのうち、お二方の最新ブログが「伝え方」を解いていらっしゃいました。
「ズルい英語」の発想から学ぶ、相手に伝わり、相手の心を掴むコミュニケーション - チャンスを味方にする思考法
伝えること 〜伝え方は大事、伝えたいことはもっと大事〜 - 「青い日々」
単なる偶然では無さそうです。
この機会に反省しなくては!
私がたどり着いた答えは、
「シンプル」
です。
アインシュタインも大切にしていました。
“シンプルに説明できないのなら、それは十分に理解できていないということだ”
人生に気づきを与えてくれる、アインシュタイン「20の名言」。 | TABI LABO
うーん、困った。困りました。挫折です。
ところが、アインシュタインはこうも言っています。
“何も新しいことに挑戦しなければ、挫折を経験をするわけがない”
人生に気づきを与えてくれる、アインシュタイン「20の名言」。 | TABI LABO
救いの言葉ですね。
これからはシンプルに説明できるように。
挑戦してみます。
あまりゴタゴタ書かないで、読者のみなさまにスッと入っていく文章を目指します。
タイトルも、文章がシンプルであればスッと分かり易いものがつけられるはずですよね。
シンプルにするとアタマが整理されて落ち着きますね。
これはいい!
脱線すると、私が優柔不断なのも、シンプルさが欠けているからでしょう。
シンプルなら、選択に迷うこともなくなりそうです。
大きく言えば、人生の選択も、シンプルな方がいいのかもしれませんね。
スッと自分に入ってくる選択肢を選べばいいのですね。
ブログは読者のみなさまとの文章の共有ですから、普段よりもっとシンプルを磨かないと。
前掲のお二方、ありがとうございました。
また、アインシュタインにも感謝です。
シンプルに精進しますね。今後ともよろしくお願いします!
mesameでした!ではでは!
私たちはただ一通りの存在なのか?
さつま芋を食べながら考えましたmesameです。
私たちはただ一通りに存在しているのでしょうか?
それとも、本当はもっとたくさんの存在の仕方があったりするのでしょうか?
さつま芋を食べている私は、私の判断では、さつま芋を食べています。
では、さつま芋を食べていない私は、そのとき存在しないのでしょうか?
普通に考えると、さつま芋を食べているなら、さつま芋を食べていない、とは言わないでしょう。
なぜこんな事を言うかと言えば、ほんの数秒前までさつま芋を前にしながらも、そのさつま芋を食べていない私がいました。
なぜか知らない力が働いて、私はそのさつま芋を食べるようになったのです。
知らない力とは食欲なのかもしれませんが、もしそれが働かなかったら、さつま芋を食べていない私がそのとき存在しているはずでした。
しかし、さつま芋を食べている私が存在していることを認め、同時にさつま芋を食べていない私が存在していないことを認めると、食欲が働かなかったなんて事はあり得なくなります。
その前に、さつま芋を目の前に置いておく事も必然の事になってしまうのです。
なぜかと言えば、そのときさつま芋を食べていない私は存在しないのですから、さつま芋が目の前になければなりません。
つまりは、いまの存在のあり方をただ一つに限って認めると、全てが、世の中の全てが、いまこうなっている為に必然でなければならない訳です。
この事情については、二通りの見方ができます。
一つ目は、全てが必然である、という見方。
二つ目は、存在しているのは一つに限られない、という見方。
どちらも奇妙な見方ですが、話の流れからするとこうなってしまいます。
もしかしたら、論法に誤りがあるのかもしれません。
私の力不足で、いまのところこれ以上踏み込めないのが残念です。すみません。
さつま芋も食べ終わってしまいました。
実を言うと、今回は、この世の中の存在は全て「真」である、と書こうと思い立って書き始めたのですが、筆の力はすごいですね、「真」かどうかは分からない状態になってしまいました。
世に言う、ゲーデルの定理のようなものでもあり、量子論の話のようでもあります。
ザクッと言うと、ゲーデルの定理によれば、「この命題は証明できない」という命題は証明も反証もできない、とのこと。
今回の話は、どう扱っていけば良いのでしょうか。
一つのよすがとして量子論がありますね。量子論では「重ね合わせの原理」が基本とされています。つまり、「状態」とは可能なあらゆる状態が重ね合わされていて、観測されたときに状態が確定する、という話。
存在とは一通りではなく、様々な重ね合わせだろう、と言うのが真相に近いのか、それとも量子論の採用している原理が超克されるときが来るのか、私にはいまのところ分かりません。
とうとう灯油もなくなったので今回はこれで。
mesameでした!ではでは!
自信のつけ方は案外簡単かも
ピアノが上達しない、しない、と言いつつ、ピアノに向かってみると少しずつ弾けてくるようになりました。夜遅くまで頑張ってしまい、おかげで寝坊して遅刻しそうになり危なかったmesameです。
少しずつ弾けてくると自信がついてきました。
それで今回は自信のつけ方に焦点を当ててみます。
ピアノに向かう前に、同じ曲がプロの手で素晴らしく弾かれている動画を観ました。あのように弾くにはどうしたらいいものか、と考えながらピアノを少しずつ弾いてみました。
昔、小さい頃ピアノを習ったときのことも思い出されてきました。
つっかかってしまった時に無理に先に進んだりせず、そこをゆっくり片手だけで弾いてみたりしました。
あっ、ピアノの先生はあの時これが言いたかったのだ、と私は再発見するのでした。当時は私が未熟ゆえ理解できなかったのだと思えるのでした。
言い換えると、ピアノの先生にしたら当たり前のことになっていたのですが、私にとっては当時それが初めて聴いたことなものですから、えー?ってなっていたようです。
それが自力でなんとかしようとしたときにやっと活きてくるんですね。
だから、ピアノの先生は教えよう教えようとしていましたが、教えない技術が必要だと思います。
教えるのは案外簡単です。ですが、習う方からしたら、その意義や意図がよく分かっていない場合があります。
仕事でも何でもそうですが、自分でやってみてこそ初めて自分のものになりますよね。ほぼ全ての作業は、やる理由があるからやっているのですね。
そうして、ピアノなり仕事なり、上達していける自分を発見すると、これまでは無理だ、自分ではできない、と決めつけていただけだったのが分かります。やれば出来るものが増える喜びはこの上ないものです。
昔の自分は昔の自分にしか過ぎなく、人間はどんどん成長できるものだ、というどこか懐かしい話になってしまいますが、しかし、それが真実でしょう。
ピアノのプロになれませんよ、勿論。しかし、そのつもりもないので一向に構いません。私が満足できるなら、それが全てです。
昨日の自分を超えていける人間の成長力なるものは、生きる上で至上のものでしょう。
それは誰かの助けを借りたりしつつも、自分を信じられるようになる過程でもあります。
自信をなくしてしまった時は、少しずつ、ゆっくり構えて、焦らず、ですね。できることがゆっくりですが少しずつ増えていく快感が何ものにも替えがたいのです。
自信のつけ方は、やれることを一つでもその半分でも、いや、そのほんのちょっとでもやることだと思います。
自分の成長力に期待して。
すると次が見えてきます。それまでの風景が変わっています。できなかった自分を超えた風景は、自分にとって一番大事ですよね。それが自信がついたというのではないでしょうか。あくまでも自分基準で。
mesameでした!ではでは!
何事も練習あればこそ
今日、久しぶりにピアノを弾いたら、全く弾けなくて愕然としましたmesameです。
なぜピアノが弾ける人は、ピアノが弾けるのでしょうか?
弾けるように練習していたり、その素養があったりするから初見でもじゃんじゃか弾いてしまいます。
羨ましい。
と、弾けない私は思うのですが、弾けるまで練習すればいいですよね、早い話。プロ級には程遠くても、アマチュアでバリバリ弾いてる人がいますよね。そうなるべく練習をすれば良い話。
でも、ピアノが上達するには、私のようなのは一定程度時間がかかります。それゆえに、途中で挫折、となる恐れがあります。
弾ける曲から次第次第に望みの曲へ、だんだんと上達でき、その過程で飽きることなく、倦むことなく練習に励まれるのなら、誰もがピアノ上級者になれそうですが、世の中そうでない。
なぜでしょうか?
上達が当初の期待と違って遅かったり、練習のための練習をしているとイヤになってしまうのです。
そこへ、先生なる人が指導していたりすると、ここはもう少しクレッシェンドで、ここは伸び伸びと、ここは静かに、とか曲に表情をつける、という指示が出てきていつまで経っても先へ進めなくなってしまい、もーやめた、となってしまいます。
ところが、独学ですと今度はちょっと弾けなくなった時点で直ぐに諦めてしまうか、上達のヒントがもらえないが為に一向に上達につながらない訳です。
八方塞がりです。
そこで、ピアノが弾ける人は偉人になります。
さっきも言いましたが、羨ましいですね。はっきり言うと。
それはどうしてかと言えば、天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。で始まっているにも拘らず、学問をしたかどうかでその後は違ってくるのだよ、とかの大先生がおっしゃっている通り、なんかこう、巧妙に騙されている感じが拭えないのが反映されているのですね。
挑戦することに意義があるとするならば、かの大先生が英語を一生懸命勉強というか研究し遂にそれまでの日本語まで変わってしまったぐらいに影響を及ぼす程、心底学問に熱中するくらいピアノに熱中すれば良く、ベートーヴェンも「熱情」と銘打った作品を書いたぐらいですから、何事も熱中、熱情あればこそ、なのです。
ピアノが弾ける人を羨望の眼差しで遠くから仰ぎ見ていてはいけないのであって、熱情を身体中にみなぎらせて、弾が飛んで来ようが火事になろうがピアノ、ピアノ、ピアノ、と念じていれば、いつかはピアノが弾ける人になれるはずで、もうピアノが弾けません、という人はいなくなるぐらいその上達方法に習熟して公にしたならば、ピアノが弾けることは全然普通で、空気を吸うようなぐらいなことになり、私がピアノを弾いても、私がピアノが弾けることに意義を見出せなくなりますので、ここは大先生のように、練習に励めばよろしいとしか言わないことにしましょうか。
mesameでした!ではでは!
ゆめを語るようになりたい
初夢は、ボールを投げても投げてもゴールへ届かない、というものでした、mesameです。今回は自分の心に挑んでみました。
『ゆめを語るとき』
あなた、人生のゆめ、忘れてませんか?
と戸口であの人は言った。
忘れてないよ、ちゃんとやり終えたから。
と言うとあの人は黙って戸を閉めた。
あの人はなぜそんなにむきになったのだろう。
前からずっと言っていたのに。
私のゆめは終わったのだ。
私は自分に言い聞かせた。
そういえば、
希望を失ってはいけません。
とも、あの人は言ってたっけ。
いまだにその意味がわからない。
希望とはなにか。
何も叶わない人生の中で、希望とはなにか。
何も楽しくない人生の中で、ゆめとはなにか。
あの人はわかっているのだろうか。
私とあの人とは全く違う。
でも、接点があったのだ。
接点があって、それきりにはならなかった。
あの人に私のゆめを語った。
あの人は私のゆめを理解しようとしてくれた。
それで私は満足だった。
あの人はゆめを実現するのが仕事だった。
熱心に、こうすればいいよと様々知恵をくれた。
でも、私が語ったゆめにはその必要はなかった。
ただ語ったことで、十分だったのだ。
語って理解されただけで良かったのだ。
実現など不可能なゆめだと私にはわかっている。
それが私を何者でもなくしているようだ。
私のゆめは私の人生をかけて作り上げたものだ。
しかし、それを誰が求めているというのか。
私のゆめは、ゆめに過ぎなかったのだよ。
あの人もそうだったと思う。
私のゆめが実現して世の中が変わっても。
世の中が変わることなど当たり前だ。
そのために私が必死にならなくてもいいのでは。
世の中は変わるときは自然と変わる。
ゆめのためにたたかう必要はない。
そう思ったとき、私はあの人との接点を失った。
あの人とは、世の中の常識だった。
私は非常識なのか。
それとも敗北者なのか。
ただたたかいを諦め、逃げているだけなのか。
おそらくあの人のように生きるべきなのだろう。
そうでないと生きる意味を失ってしまうから。
たたかっていたら、充実感ありありだろう。
そういう人生もよい。
しかし、そうでない人生だってあり得るのでは。
そう、自分を無理に鼓舞しなくてもいいはず。
心に平安が訪れたら、それをかみしめたい。
自分が揺れていたらいつまでも不安だ。
心を安定させ、生きることそのものに集中する。
そうやって自分の耳を研ぎ澄まして生きたい。
前のめりにならず、すらりと立っていたい。
自然な生き姿で生きる。
人から悪く言われれば傷つくが、それが自然だ。
傷つくのが自分ならば、治るのも自分だ。
そういう話を、あの人としてみたい。
あの人はわかってくれるかな。
あの人に優しく触れて。
私もそのとき本当の自分を発見するだろう。
内から充実して。
静かに微笑んで。
さあ、ただいま。
人生のゆめは、もうここにあるんだったね。
と、あの人に会いに再び戸を開けよう。
あの人のゆめを聞かなくては。
世の中のゆめを。
それこそ私が必要だったものだ。
それがわかってこそ、私が始まるんだ。
もう一度始めよう、私を。