個人的な人生?(フィクション風)
冬至カボチャを食べ損ねたmesameです。その代わり、フィクション風文章書いたのでお送りしますね。ほんのちょっと長めですが、どうぞお付き合いください。
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『個人的な人生?』
いつの頃からか、わたしは心安らかな場所に居ました。
誰に気を遣う訳でもなく、かと言って友人がいない訳でもなく、大学もそこまで勉強が大変ということもなく、しかし、宿題やバイトで忙しくしている毎日です。充実しています。
彼氏もいます。同じ大学の同じ学科の人で、特に目立っているような風貌でもないのですが、その割りと気楽そうなところに惹かれて付き合うようになりました。
大学では小難しい話が好きな先生たちだらけです。たまに面白く思う時もありますが、自分たちの世界にはまっていて、わたしにはよく分からない人たちですね。
そろそろ卒論を書かないといけない時期でもありますが、普通のいわゆる就職はせずに、卒業したらバイト先の喫茶店を本格的に手伝わせてもらうことにしたので、まわりの大変さと比べるとわたしは気忙しくなく、睡眠時間を削って頑張るなんてこともなく健康的です。
好きな音楽はピアノです。バッハが好きです。聴くだけですけどね。子どもの頃ピアノを習ったことは習ったのですが、ある時、スピーカーから流れるバッハを聴いて、何の曲か分かりませんでしたが、とにかくバッハであることは間違いなく、これまで習ってきたピアノ曲の、普通に美しいメロディとは違う、キチキチとしたリズムの中に隠された、「音」が「旋律」になる様が、なぜかその時わたしの頭の中に響き、それ以来、メロディを歌うように弾いていたわたしの手は止まってしまいました。成長したのでしょうか。でも、時代から言うと逆なのですが。不思議なことに。
不思議ついでに言いますと、わたしはなぜか、今日一日生きると、昨日のことはほとんど気にならなくなる質なのです。世間で言う天然ですね。ですから、昨日、大事件が起きたとニュース番組で言っていても、翌日はあっけらかんとしています。それでも生きていく上では支障何もないのです。記憶がなくなって忘れてしまう訳ではなく、気にならないってことです。
ですから、毎日が新鮮で、まっさらな気分で生きているのです。寝てる間にリセットされてしまうのでしょうか。笑っちゃいますね。
こうして、毎日が新鮮な充実した人生を送っているのもまた珍しいでしょう。しかし、わたしはみんなから、きっと人知れぬ苦労をして来たのだろうとか、内心は何を思っているのか分からないやつだとか、散々に言われているようです。けれども、そんなことは気になるどころか、楽しい風景ですね。みんなが不思議がる姿を見て、わたしこそ不思議に思い、また、愉快な気分になってしまいます。
こうして、普通は、人生は大変だ、なんとかしないと、と奮闘している人をよそ目に、ぬくぬくと生きているわたしが居る。
なぜこの筆をとったかと言いますと、このぬくぬく感に、わたしといえども罪悪感を覚えて来てしまい、どうしたらいいものかご相談に乗って頂けないかと思ったからなのです。
ご理解頂けるでしょうか?
わたしは、このまま心安らかな場所で生きていくのは罪のように感じ始めているのです。修羅場を潜り抜け、苦労に苦労を重ね、それでやっとつかむ幸せなどではなくて、普通に生まれ、普通に生きて、毎日が新鮮でまっさらに、真っ直ぐに生きているわたしは、このまま生きていていいものなのでしょうか?
それとも、わたしは本当は苦労しているのに、それをすっかりどこかへ解消してしまっているのでしょうか?
人生について考えることもなく生きていた、というのは本当はウソで、葛藤そのものを無くす術を持っていただけなのでしょうか?
わたしは理解されないと思います。
しかし、みんなが目指す健康的な人生とは、こういうものなのではないのでしょうか?
それはあくまで、そんなことある訳がない空想上の理想なのでしょうか?
理想的なものが実現しているとき、ひとは信じないのでしょう。人間くささがない、とか。
あっっ!分かりました!わたしはわたしの道を歩いて来ただけ。人のことは関係していませんでした。人は人、自分は自分。傷つくこともなく、最高に好きな自分を生きていました。人を理解しようとしていなかったのです。人はどう思うか?など詮索などせずに、伸び伸びと生きてしまいました。人の苦労も知らずに、だから、共感することも出来ず、ただひとり、安住の地に住まいしておりました。
なんと罪深いことでしょう。
世の中と縁がスパッと切れているのです。
わたしは自分最高に生きていても、人としては最低なのです。
どうすればいいですか?
そうだ、バッハは「音」を「旋律」にしたのでした。わたしはわたし、では人生が旋律にはならないですよね。その謎は、どうやって解けばいいのでしょうか?
考えてみましょう。
いやいや、簡単な話です。ひとつひとつの音には個性があります。だから旋律になり得る訳ですね。わたしの場合も、わたしの個性を大事にしてていいのでしょう。大局を観れば、世の中の旋律に使われているのではないでしょうか。
しかし大事なのはここからです。美しい旋律になる為には、協調ということが必要です。分かりました、わたしに欠けていたのは、他人への干渉だったのです。干渉とは、悪い意味でのものではなく、そうですね、むしろ関わり合い、と言うといいのかもしれませんね。
それを避けていたのです。わたしがわたしであろうとしていた為に。
そう、本質は逆です。
旋律があってはじめて音の個性が生まれるのです。
しかし、この考え方は大学で習った「全体主義」に近く、困ったことになりそうです。
全体の為に個がある、ということは個が全体から滅せられてしまうことにつながります。
では、どうしたらいいのですか!?
個人の集まりとしての全体でもなく、全体の為の個人でもない、とすると?
分かりました!それが「民主主義」ということでしょう!!
何を突然、政治的な話にして、と思われても仕方ないです。政治的な話とは、選挙の話ではなく、元来社会の在り方を問うことであったのです。
音は音でよいのです。それを認めます。しかしながら、音はうまく協調すれば旋律になる訳ですし、不味く協調すれば不協和音になって、どちらかだけでは音楽になりません。不味いものがあるとそれを回復させようとして音楽にダイナミクスが生まれます。それが社会というものだ、というのが民主主義ですよね。
わたしは、民主主義の一員として、どうあろうともわたしの趣向に合った生き方をすればいいし、それしかできません。しかし、忘れていけないのは、わたしだけで生きている訳ではない、ということですね。わたしが活きるのは、わたしを支えてくれる人がいるからですし、わたしも人を支えていく必要があるのですね。
あー、なんか、すっかり気分良くなりました。
書くことっていいですね!
これは自分用のノート。誰に向けて書いた訳じゃございませんでした!あはは!はー、スッキリ!
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最後までお読み下さりありがとうございました!mesameでした!ではでは!